2026年3月10日忘れられない震災の思い出

 お散歩していると、道端にいろいろな花を見つけます。子どもたちは不思議と吸い寄せられるように花の近くに寄っていきます。「大事だから摘まないでね」のお願いも聞けるようになってきました。やわらかい土の所にはヨモギの新芽が出ていました。まだ小さいので摘めませんが、昨年の春に経験しているからでしょうか、小さな手でつまんで早速匂いをかいでいます。こんな場面にも成長と、あー1年経っのだな~と嬉しくなりました。 

 3月11日は東日本大震災から15年目になります。あの年に生まれた赤ちゃんたちは、中学生、高校生になるのですね。あの日の経験は、みんなの記憶にいろいろあるでしょう。私は丁度東所沢保育園を定年退職する年でした。3月のお別れ遠足で、3歳、4歳、5歳児を連れて上野動物園に出かけました。その帰りに、武蔵野線西浦和駅を過ぎた辺りで電車は急停車しました。電車はそれほど揺れなかったのですが、窓の外から見える鉄塔が大きく揺れていました。車内は一斉に携帯電話を見つめる人たちばかりになりました。情報は何も分からず、夕方まで閉じ込められたままになりました。子どもたちはリュックに食べ物もあるし、水もある、トイレは最悪窓から出来るね、などとふざけたことを言いながら、とにかく大人が落ち着いていれば、子どもは大丈夫なのです。それより、ピクニックシートを広げて、もう一度遠足ごっこが始まったり、詰めて座席に座らせてもらった子たちは、隣の人と楽しいおしゃべりをして、車内を明るくしてくれていました。結局走り出すことは無く、電車を降りることになりました。運が良かったのですが武蔵野線西浦和駅を過ぎると、すごいカーブの所があり、そこで地震が来たら、もしかしたら脱線していたかもしれません。線路伝いに、西浦和の駅まで歩くのは初体験で、ワクワクしている職員は、写真を撮ったりしていました。ここにきてもまだ私たちは大変な事が起きていることを知らなかったので暢気に「動物園に行ったのに、絶対こっちの経験が思い出になっちゃうね」などと話して居たのです。この駅から園まで駅員さんは、バスを乗り継いで帰ることを勧めてくれたのですが、なぜか私はここから移動しない方がいいと考え、駅の近くに必ず学校や、保育園などの公共施設はあるはずだからと、若い職員を走らせました。運よく近くに中学校があり、そこはすでに避難場所になっていて、私たちの様な人を先生たちが待機して受け入れてくれました。それまで全く保育園との連絡がつかなかったのですが、職員室に通され、電話を借りることが出来、保育園は落ち着いている事、親との連絡の指示をして、ここで待つことにしました。職員室のテレビですさまじい津波の映像を見せられ、この時初めて大変なことが起きたのだと理解できました。この日協力してくれた親たちの車に数人ずつ乗せて、園まで連れて帰りました。最後の子どもたちと職員が帰る時間には道の両側は、歩いて帰宅する人の大行列でした。そして保育園の最後のお迎えは、足を血だらけにしたお父さんが11時を回っていました。泊まる覚悟をして準備していましたが、わが子の顔を見るまでは、安心できなかったのでしょう。忘れられない震災の思い出です。

  その後も大変な日々が続き、15年経ってもまだ安心して暮らせるまでにはなっていない人たちが大勢います。私たちもどんどん忘れていきます。政府も再度原発の安全神話を出して、更に再稼働にかじを切り始めました。何も解決していないどころか、世界中が核の抑止力を掲げて核開発に向かっていきます。戦争地域は広がり始め、いつ終わるとも知れずです。子どもの喧嘩のような言い訳にしかおもえない攻撃理由で、亡くなっているのは、大勢の子どもたちです。日本だってもう安心してはいられないような気がします。スポーツの祭典、オリンピックも平和でなければ、出場を諦めたり、ボイコットしたりする国が出てくることは心から楽しむことはできないのだと、本当に残念な事です。こんな便りにつぶやいても何にもならないのですが、 私たちは知る事を諦めたり、語り継ぐことをやめたりしないで、せめて自分たちの周りの人たちと語り合いたいと思います。 




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